昭和54年01月29日 朝の御理解
御理解 第21節
「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。
信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのをと、こう仰っておられる。その向かう心というのが、心を尽くしての向かい方でなからなければならないという。只、手を合わせて、神様どうぞお願いしますという信心。それでもやはり、心が神に向うたわけですけれども、段々分らせて頂く事は、向うただけじゃいかん。これをやはり、心を尽くさなきゃいけん。真でなからなきゃいけない。
改まって願わにゃいけん。ね。というところから、私は神へ心を向かう、向けるところから、いうなら神様の実感というか、神様を身近に感じるようになる事が出来るようになる。ただ、お願いをしておかげを頂いた。又はおかげを受けなかった。それではぁやっぱおかげじゃろうか、神様もやっぱいい加減なものじゃある。というふうな思いが、こう言葉が悪いですけども。
そのいい加減というわけでもないでしょうけれども。それがそうに、おかげを頂けるものじゃない。まぁせんよりよかと、言った様な信心から、まだんだんおかげを受けるとか、受けないとかでなくて、身近に感じれるように、だんだんなってくる。それには、いよいよ自分の心を改めた上にも改めて、しかも心を尽くしての向かい方。そこから神様を身近に感じる事が出来る。
昨日竹葉会でございました。昨日から浮羽の石井妙子さんが、竹葉会に入られました。それで昨日、皆さん一人一人発表しとりましたが、皆さん素晴らしい発表をなさいました中に、その妙子さんの発表を聞かせて頂いて、今日この御理解を頂きながら、私はも椛目の時代からお参りしよるとは、お参りをしよります。それでもお願いがある時には、今私が申しました様に、その神の実感心もとない。だからお願いをする。
そして、おかげを受けたり、受けなかったりと言った様なところから、信心を段々さして頂くようになりましたが、此頃、神様を大変身近に感じるようになりました、という話しをしております。というのは、此頃から兄嫁さんが殆人ど配達なんかは、自動車に乗られますから、なさいますが、丁度病気で入院しておられました。おかげを頂いて帰ってくるまで、五十日間かかった。
お酒屋さんですから、そのやはり車、自動車をお使わなければいかないことがあるから困る。とは思っとったけれども、とにかくお取次ぎを頂いて、お願いをしてというて。ところが五十日間一日足りとも、はぁ今日は車がなかけん困るという事はなかった。という発表をしております。もうそれは、もう本当に何とも言えん。まとまってある時には、例えば卸屋さんが来る。ちょっと御迷惑じゃろうけども配達してくれと言った様なね。もうその、こげん神様を身近に感じた事はございませんでした。
しかも五十日間続きましたという話しをしております。ね。その変わりにもう心いっぱい心をお客さんにも、家庭の上にも心を尽くさして頂いて、も夜の御祈念なんかもう、母と二人で大祓心行をなさる。それで一緒でなかなか出来ませんけれども、母も一生懸命これを欠かした事はありません。私もしたりしなかったりの信心が、も心から神様へ向かって御祈念をさして頂くようになりました。神様をいわゆる身近に感じ出したんですね。いわゆる信心せよ。信心とは我が心が神に向こうて来たんです。ね。
それからもう、これは兄が笑いよりましたが。と言うて話しておりましたが、お金をいわゆるひっかかりが出来たわけです。だからこれはもう取れんとあきらめておったけれども、親先生にお届けさして頂いたら、集金に行きなさいという事であった。それはもう向こうは大変な家だけども、向こうとしても関わりあい。そこに雇うとった人が、沢山お酒を取っては、そしていつどこさん行ったやらわからにょうにしておるわけです。結局まあ引っかかっとったという事になっとったけども。
そこの家にやらせて頂いたら、そこの御主人が大変か分った方で二度やらせて頂いたが、向こうからお金を持って来て頂いたという話しをしております。だからもう信心のない兄が、これだけにはもう、びっくりしとりました。と言う様なね。いわゆるおかげ話しなんです。だから心を尽くすという事が、どういう事かと申しますと、私がたまたま庭に咲いとる花を教会に。親先生が茶花風の花がお好きだと聞いとりましたから、親先生の控と、それからお部屋に花を入れさして頂きました。
ちょうど月次祭でしたから、晩も参らせて頂いたら、私の話しが月次祭に出たというのです。それで、その前の日に来て、何とかという紫の花が、ちょうど桔梗みたいな花ですけども、これはもう日のうちに何時間しか咲かない花だそうですね。ですから、親先生がお目覚めになって、朝、目が覚まされる時間というのを、こう見はからってお花を入れさして頂きましたら、ちょうど私が起きて、顔を洗って部屋に入った時と、花がぱっと咲いたのが一緒だったんです。
だからその話しを、私は月次祭にさして頂いたんですけれども、心を尽くすという事はこういう事だよと、そういう話しをしたそれを、ここで聞いておった。ははぁ心を尽くすという事はあぁいう事だなと思って、その事をお客さんの一人一人にね、心を尽くすことを考えたと言うのです。ね。だから神様を本当に身近に感じるためには、心を尽くして神様に向わなければいけない。
以来私は人に接する時に、またお客さんにね、心を尽くす事を覚えさして頂いて、神様を、ま本当のものじゃないでしょうけれども、身近に感じさせて頂くようになりました。という発表を聞いて、私は本当に感心しました。ね。会長であります、秋永先生の奥さんが一番最後に、今度の大阪で三菱銀行でのあの殺人事件がね、三日間も、もそれこそ日本中を震い上がらせるような、ま残忍な事件がありましたですねえ。
その事を思わせて頂いたら、一晩中どうある事が人間の幸せだろうかという事を、まんじりともせずに考えたという話しをしておりました。ね。世の中に次々と最近は、中学生高校生の自殺がもう、大変多い。ね。どういうところから、あぁいう事になるだろうかと。今日の御理解。それこそ成程「信心なければ世界は闇なり」と言う様な。これは信心がないからだという事に結論が出た。
どうぞ一日も早う、説明しておった方が言った様に、それこそ一分間でも一秒間でもね、早くこれが解決のおかげを頂いて、無事に終わるようにというふうに、その言っておられたが、ね。私はそういうふうに思わなかった。ね。こう言う様ないうなら世相そのものがね、どうした事であろうかと。結局和賀心時代を世界に、十三日会を世界にと親先生が言われるが、もういよいよ本気で信心の光ともならなければならない。
その光にうるおうところから、人間の幸せがあるんだと、まそういうふうには申しませんでしたけども、そういう意味の事を話しておられました。今日の御理解で言うと、成程、信心なければ世界は闇だ。という事なんです。ね。だからと言うて、ならどういう信心でもよいか、信心さえしとればよいかと只、御利益受けるだけの信心。それだけでよいか、それでは光にはならないということである。ね。自分のところの清まりが、隣にもひびいて行く様な清まりでなからなければいけない。
昨日皆さんにお配りしましたような、合楽の信心は。と問われたらこれくらいな事位は、いっちょ説明が出来なければいけない。金光様の御信心とは。と問われたらこの位の事は人に説明出来なきゃいけない。と簡単に要領よくまとめてある。これを皆さんにお配りしましたようにです、本当に天地金乃神様とはどういうお方であるか。その天地金乃神様との交流。それは私共が生神をめざすという事なんだ。信心とは結局、私は金光教の信心は生神をめざす。という信心からでなからなければね、光にはならない。
その手立てが真だよ、真心だよという事になり、それを具体的に言うと、物事にも人に対してでも心を尽くすということだ、という事になるのじゃないでしょうか。ね。そこからいうならば、もう石井さん、お母さんが藤島さんと言いなさいますが、信心をされるようになったら、もう何十年になりましょうかね。高芝さんが信心してすぐじゃから、その頃から信心なしよったちね。けどもなら、毎日御祈念をするとか、只お尋ねに行くとかお願いに行って、それもおかげを受ける時もありゃ、受けん時もある。ね。
いうなら散漫な信心であったね。それがおかげを頂いて、あの心ずくしという自分。あっ自分が心つくさせて貰う。あっこの生き方でいけば神様が喜んで下さるなと。この生き方で行けば、親先生が喜んで下さったんだから、神様も喜んで下さるんだなと思うたわけです。ね。だからこの花が何時間後に開くんだという計算をちゃんとしといてから、それが、偶々たまたまと言うか神様の、あれは働きと私は思うんですけども、私が部屋に入ったのと、花が開いたのと一緒だった。はあ気分がいいですね。
人の真心をも、しみじみ感じさせてもらう。その有難かった事をお話し聞いて、はぁこの生き方で行けばよいと家族の上にも、お客さんの上にも物事の上にも、以来そういうふうにさせて頂いたらね、おかげがはっきりして来たと言うねである。取れんものが取れる。開けんはずのものが開ける。何か便所のドアがくずれておって、子供が入っとる時につめ込んだげな。それで便所の中につめ込まれてからね、とにかく一時間位かかったち。その何か、大工さんから来てもろてから開けてもらうとに。
その間でも本当に心から、例えば大きな声も出さずに済んだとこう言うね。お参りさして頂いて、丁度お花をする時に豊美と一緒にでしたから、豊美奥さんにその話しをしたら、やぁおかげ頂きなさったですね。お便所を親先生は御結界ち言いなさるから、も御結界にそりゃも、一時間も入っとんなさった。それば頂いたら、なお有難うなったという話しをしとんなさいました。もう頂き方。自分の心というものはね。
心が神様に向こうておると、もう有難い方へ有難い方へと、自ずと転がっていく働きがおこってくるんです。ね。もう生神に向う一つの手立てというものがね、心尽くしてから始まるという事です。誰あれも知らんでもよい。心を尽くさせてもらう。ね。それが神様の喜びとなった。親先生の喜びともなった。もこの生き方。この生き方を覚えたらという信心がね、いうなら今日の御理解で申しますと、我が心が神に向うとはこういう事なんだ。氏子に芯なければおかげはなしと、はっきり断言しておられる。
芯なければというのは心尽くし。真心がなければという事だと思うのです。只、真心も何もない。只、我情我欲のために神様お願いします。自分のよかごつなるとがおかげとだけの時代から、そういうふうに信心が育っていく。進展してまいりますところからです、ね。そういう信心が集まっていうならば、世の光とも世界を照らす働きともなってくると思うにです。ね。我が心が神に向うというのは、心をつくしての向かい方でなからなければならないという事ですよね。
どうぞ。